織田裕二は打ち解けたが、中山美穂は一人で…プロデューサーが明かす『Love Letter』誕生秘話「二度と映画はやらない!」と言い放った中山は1年後…
「もう二度と映画はやらない!」 1991年春、映画「波の数だけ抱きしめて」の撮影を終えた21歳の中山美穂は、映画のプロデューサーでフジテレビ社員の河井真也氏にこう言い放った。 今年12月6日、中山は渋谷区の自宅で入浴中の事故で帰らぬ人となった。 トップアイドルから大人の女優へシフトする20代前半、中山の2本の映画をプロデュースした12歳上の河井氏が小誌に思い出を語った。 1991年8月、バブル崩壊の年の夏に公開された「波の数だけ抱きしめて」。バブル景気に沸き立つ世相をフィルムに焼き付けた「私をスキーに連れてって」(1987年)「彼女が水着にきがえたら」(1989年)に続く、ホイチョイ・プロダクション三部作の3作目だった。 そのヒロインを演じたのが中山。だが、このキャスティングは当初の予定ではあの女優だった。 「美穂ちゃんは地方での人気がすごい」 「監督の馬場康夫さんは、前作までの2作に主演した原田知世で“知世三部作“にするつもりでした。僕もそのために、1991年の3月~4月という撮影スケジュールを向こうに伝えていたはずだった。でも、彼女のマネージャーが替わり、うまく話が伝わっていなかったのか、『知世は今、音楽活動に力を入れていて、その時期はライブを入れました』と言われてしまった。東宝は既に1991年8月公開と決めてしまっている。東宝とフジが絶対にヒットをと求めているなか、じゃあ中山美穂にしようとなった。 それまでの2作は都市部では強かったんですが、地方では弱かった。美穂ちゃんは地方での人気がすごいと聞いていたので、良い効果が出るんじゃないかと思いました」 千葉の海岸で行われた撮影は、中山にとって辛いものだった。相手役の織田裕二は前作「彼女が水着にきがえたら」から出演しており、旧知のスタッフと打ち解けていた一方で、中山は待ち時間の間、ずっと一人で本を読んで過ごしていたという。 クランクアップ後、長期入院のため撮影に立ち会えなかった河井氏は中山に再会すると、冒頭の「映画はやらない!」の言葉を投げつけられ、こう言われた。 「私はドラマで4時間、5時間、ず~っとそこで待ってるなんてさせられたことはない!」 映画の中身は軽いノリでも、撮影現場は別。ドラマと違って、太陽が出るのをひたすら待つ、ということはザラだったのだ。 その後公開された映画は興収10億円を超え、三部作で最大のヒットに。だが中山の言葉が突き刺さった河井氏は、もう一緒に仕事はできないだろうと思っていた。 ところが。翌年、人気絶頂の中山は河合氏のもとを訪ね、こう言った。 「代表作って言われるものを作ってよ」 中山が河井氏に語った思いとは――。現在配信中の 「週刊文春 電子版」 では、プロデューサーの河井氏が語る、映画『Love Letter』の誕生秘話を掲載している。
「最後まで私が一緒にいるから」八代亜紀さんが50年を家族のように過ごした“10歳上の付き人女性”
歌手の八代亜紀さんが2023年12月30日に急逝して1年になる。 2023年8月に体調を崩し、病院で検査を受けたところ膠原病(こうげんびょう)と判明。治療のため、同年9月に入院。SNSでは《必ず元気になって戻ってきます》と発信していたが、容体が急変。帰らぬ人となった。 「膠原病の影響で、間質性肺炎を引き起こしてしまったのです。声帯が傷つくと以前のように歌えなくなる可能性があることから、チューブを挿入する治療を拒否し、最後は眠ったまま息を引き取ったようです」(スポーツ紙記者) 八代さんを支えてきた所属事務所のスタッフたちは、この1年、どんな思いで過ごしていたのか。 八代さんの事務所の社長だった大野誠さんに話を聞いた。 「いずれ人間は亡くなってしまうものですが、こんなに早く八代さんが逝かれてしまうとは思いませんでした。正直、お別れの会の準備をしていたときは記憶がありません」 2024年2月に八代さんの故郷・熊本で、同年3月に都内でお別れの会が開催された。 「亡くなることは、まったく想定していませんでした。ですが、なんとか現実を受け止め、八代さんの功績に恥じないお別れの会を開催しなければなりません。ただ、会の準備は、仕事というよりも、これまでの感謝をお返しするという気持ちで、スタッフ全員が取り組んでいました。なので、お別れの会は、スタッフたちの感謝の気持ちが集約したものになったと思っています」(大野さん、以下同) 絵の展覧会やイベントを準備中 所属事務所『ミリオン企画』は、八代さんの遺言によって2024年6月に解散。八代さんが住んでいた自宅も同じタイミングで売却された。 「2024年に開催された八代さんの追悼企画などは、すべて他社さんが行ったもので、私どもはそれに協力するだけでした。会社の清算などでバタバタしていたこともあり、私どもが中心となって開催することができなかったのです。 そのため、1周忌から2025年にかけては、絵の展覧会やイベントなど、私どもが主体となって準備を進めています。残ったスタッフは“八代亜紀がいなくなっても、ずっと八代亜紀と仕事ができる”と捉えています。八代さんが遺したものを多くの方に引き続きお届けしていくことが、私たちの使命だと思っています」
「舞台裏で男性歌手とすれ違っても敵意をむき出しに」 水前寺清子が明かす“バチバチ時代”の紅白歌合戦と、美空ひばりとの“確執”の真相
今や「国民的歌番組」の称号も形ばかりとなった紅白歌合戦。しかし、かつてこの番組には視聴率が70%を切るだけで「大事件」と言われた時代があった。昭和から平成にかけての“紅白黄金時代”を彩ったレジェンドの一人、水前寺清子がその熱狂とハプニングの数々を述懐する。 紅白歌合戦は本当の「戦」。いつもそう思って大みそかの舞台に立っていました。 というのも、私が出場していた頃の紅白は、紅組と白組の対抗意識が今よりもっと強かった。番組側の演出も徹底していて、紅組と白組で曲の演奏を担当するオーケストラも別のバンドを使っていたくらいでした。 演者の私たちも完全に“戦闘モード”で、男性歌手と舞台裏ですれ違っても「にこり」ともせずに敵意をむき出しにしていました。紅組が優勝した年には、感極まった歌手の皆さんがステージ上で紅組司会だった私を胴上げした、なんてこともありましたよね。 「勝ちにこだわるのが紅白だった」 今の「紅白」しか知らない世代の方たちからすれば、ギスギスした異様な光景に映るかもしれません。でも、当時はそれくらい本気で「勝ち」にこだわるのが「紅白」だったんです。もちろん最近の紅白も楽しいステージ、番組ですし、今でも毎年ビデオに録って観るくらい好きなのですが、当時を知る私は少々寂しさも感じます。 真剣勝負の生放送だった紅白には、当然、ハプニングもつきものでした。歌手としてもう半世紀以上もステージに立ち続けていますが、私はどうも神経がホソいところがあるといいますか……。ハプニングが起こるたびに緊張でふらふらになっていました。 膝がガクガクするほどのプレッシャー 1965年の初出場から86年まで、22年連続で紅白の舞台に立ってきた中で「一番緊張した出来事は?」と尋ねられれば、迷わず細川たかしさんと共演した年のことを思い出します。あれは確か84年に放送された第35回の紅白。私にとっては20回連続出場の節目の年でした。 私と細川さんが披露したのは共に「浪花節だよ人生は」という曲。この曲はもともと別の方が歌っていた作品でしたが、私や細川さんを含む複数のアーティストがカバーして、84年には大ヒット曲となっていました。そんな事情から、私と細川さんとで、両組が同じ曲で直接対決する、という史上初めての演出になったのです。 ところが「初めての試み」と銘打たれて緊張していたのは私だけではなかったようで。コンビを組んだ細川さんが歌い出しのフレーズを間違えて、私の緊張は一気にピークまで振り切れてしまいました。細川さんはすぐに「すいません」と謝って仕切り直しとなりましたが、私の方は「大丈夫だろうか」と心配で心配で。これほど肝を冷やしたことは後にも先にもありません。