「最後まで私が一緒にいるから」八代亜紀さんが50年を家族のように過ごした“10歳上の付き人女性”

歌手の八代亜紀さんが2023年12月30日に急逝して1年になる。 2023年8月に体調を崩し、病院で検査を受けたところ膠原病(こうげんびょう)と判明。治療のため、同年9月に入院。SNSでは《必ず元気になって戻ってきます》と発信していたが、容体が急変。帰らぬ人となった。 「膠原病の影響で、間質性肺炎を引き起こしてしまったのです。声帯が傷つくと以前のように歌えなくなる可能性があることから、チューブを挿入する治療を拒否し、最後は眠ったまま息を引き取ったようです」(スポーツ紙記者) 八代さんを支えてきた所属事務所のスタッフたちは、この1年、どんな思いで過ごしていたのか。 八代さんの事務所の社長だった大野誠さんに話を聞いた。 「いずれ人間は亡くなってしまうものですが、こんなに早く八代さんが逝かれてしまうとは思いませんでした。正直、お別れの会の準備をしていたときは記憶がありません」 2024年2月に八代さんの故郷・熊本で、同年3月に都内でお別れの会が開催された。 「亡くなることは、まったく想定していませんでした。ですが、なんとか現実を受け止め、八代さんの功績に恥じないお別れの会を開催しなければなりません。ただ、会の準備は、仕事というよりも、これまでの感謝をお返しするという気持ちで、スタッフ全員が取り組んでいました。なので、お別れの会は、スタッフたちの感謝の気持ちが集約したものになったと思っています」(大野さん、以下同) 絵の展覧会やイベントを準備中 所属事務所『ミリオン企画』は、八代さんの遺言によって2024年6月に解散。八代さんが住んでいた自宅も同じタイミングで売却された。 「2024年に開催された八代さんの追悼企画などは、すべて他社さんが行ったもので、私どもはそれに協力するだけでした。会社の清算などでバタバタしていたこともあり、私どもが中心となって開催することができなかったのです。 そのため、1周忌から2025年にかけては、絵の展覧会やイベントなど、私どもが主体となって準備を進めています。残ったスタッフは“八代亜紀がいなくなっても、ずっと八代亜紀と仕事ができる”と捉えています。八代さんが遺したものを多くの方に引き続きお届けしていくことが、私たちの使命だと思っています」

「舞台裏で男性歌手とすれ違っても敵意をむき出しに」 水前寺清子が明かす“バチバチ時代”の紅白歌合戦と、美空ひばりとの“確執”の真相

今や「国民的歌番組」の称号も形ばかりとなった紅白歌合戦。しかし、かつてこの番組には視聴率が70%を切るだけで「大事件」と言われた時代があった。昭和から平成にかけての“紅白黄金時代”を彩ったレジェンドの一人、水前寺清子がその熱狂とハプニングの数々を述懐する。 紅白歌合戦は本当の「戦」。いつもそう思って大みそかの舞台に立っていました。 というのも、私が出場していた頃の紅白は、紅組と白組の対抗意識が今よりもっと強かった。番組側の演出も徹底していて、紅組と白組で曲の演奏を担当するオーケストラも別のバンドを使っていたくらいでした。 演者の私たちも完全に“戦闘モード”で、男性歌手と舞台裏ですれ違っても「にこり」ともせずに敵意をむき出しにしていました。紅組が優勝した年には、感極まった歌手の皆さんがステージ上で紅組司会だった私を胴上げした、なんてこともありましたよね。 「勝ちにこだわるのが紅白だった」 今の「紅白」しか知らない世代の方たちからすれば、ギスギスした異様な光景に映るかもしれません。でも、当時はそれくらい本気で「勝ち」にこだわるのが「紅白」だったんです。もちろん最近の紅白も楽しいステージ、番組ですし、今でも毎年ビデオに録って観るくらい好きなのですが、当時を知る私は少々寂しさも感じます。 真剣勝負の生放送だった紅白には、当然、ハプニングもつきものでした。歌手としてもう半世紀以上もステージに立ち続けていますが、私はどうも神経がホソいところがあるといいますか……。ハプニングが起こるたびに緊張でふらふらになっていました。 膝がガクガクするほどのプレッシャー 1965年の初出場から86年まで、22年連続で紅白の舞台に立ってきた中で「一番緊張した出来事は?」と尋ねられれば、迷わず細川たかしさんと共演した年のことを思い出します。あれは確か84年に放送された第35回の紅白。私にとっては20回連続出場の節目の年でした。 私と細川さんが披露したのは共に「浪花節だよ人生は」という曲。この曲はもともと別の方が歌っていた作品でしたが、私や細川さんを含む複数のアーティストがカバーして、84年には大ヒット曲となっていました。そんな事情から、私と細川さんとで、両組が同じ曲で直接対決する、という史上初めての演出になったのです。 ところが「初めての試み」と銘打たれて緊張していたのは私だけではなかったようで。コンビを組んだ細川さんが歌い出しのフレーズを間違えて、私の緊張は一気にピークまで振り切れてしまいました。細川さんはすぐに「すいません」と謝って仕切り直しとなりましたが、私の方は「大丈夫だろうか」と心配で心配で。これほど肝を冷やしたことは後にも先にもありません。

韓国・事故を起こしたチェジュ航空とは、LCC最大手へ成長も安全に不安も…

2024年12月29日、韓国南西部・全羅(チョルラ)南道にある務安(ムアン)空港で着陸に失敗し炎上事故を起こしたチェジュ航空は同日、「事故で亡くなられた乗客と遺族の方々に深い哀悼と謝罪の言葉を申し上げる」と謝罪した。 事故機には乗員・乗客181人が登場し、うち乗務員2人が救助されたものの、ほかは全員の死亡が判明した。 チェジュ航空のキム・イベ社長は12月29日にソウル市内での会見で「今回の事故で亡くなられた乗客と遺族に深くお詫びする。原因が何であれ、最高経営責任者として責任を痛感している」と述べた。 ■事故機は関西空港でもバードストライク キム社長は「迅速な事故収拾と搭乗者家族の支援に全力を挙げる。政府とともに事故の原因究明に向けて最善を尽くしたい」と明らかにした。遺族には「補償など具体的な中身については、今後協議していきたい」とのみ述べた。 事故機にこれまで事故を起こしたか、あるいは機体に欠陥があったかを問う質問には、「そういったことはなかった」と明らかにした。事故機は2009年に製造されたボーイング737型機で、出発・到着前の点検と24時間前の点検を完了していたと説明した。 実は事故機は、2022年11月に日本の関西国際空港で離陸直後にバードストライク(鳥類衝突)で引き返したことがある。これが今回の事故と関係があるのかという質問には、「関係はない」と答えた。事故旅客機は2022年11月、関西空港で離陸直後にバードストライク(鳥類衝突)で緊急回航した。 2005年設立のチェジュ航空は、韓国のLCCとして最大規模に成長した。同社は韓国・済州道(済州特別自治道)と化学・日用品製造を主軸とする中堅財閥・愛敬(エギョン)グループが合弁で設立。2006年に済州・ソウル金浦(キムポ)線で初就航を果たした。 2024年第3四半期(7~9月)の韓国国内線での累積輸送実績は、計2万724便・乗客約361万人。シェアでは15.4%となり、韓国最大手・大韓航空に次ぐ2位となっている。 また国際線では計4万137便・乗客約645万人でシェアは9.8%、大韓航空とアシアナ航空に次いで3位を占める。日本にも東京・成田や関西、福岡など各地に就航しており、知名度も高い。 一方で、設立以来20年近くで急速な成長を果たしたものの、その安全性についてはつねに問題点が存在してきた。