
【がん闘病】古村比呂さん 「私が病院で『子宮頸がんです』と言われてから 14年目となります」「悩みに悩んだあげく 治療を受け 今に至ります」 思い明かす
古村比呂さんは「今日1月5日は 私が病院で 『子宮頸がんです』と言われてから 14年目となります」と、投稿。 続けて「2012年1月5日 ⅠB1期から始まり 進行再発がんと進んでしまいました」と、綴りました。 そして「なんでだろう? と振り返ることもありますが その時できる事は やり切って来たと 受け入れています」と、記しました。 古村比呂さん 公式ブログより引用 古村比呂さんは「その一つに 2017年の 再々発の時 『この標準治療を受けた場合 治療を始めた日から 2年後に生存されている方は 約3割と報告されています』と言う説明文を読んで 『どうしよう』と 怯んでしまった事がありました」と、投稿。 続けて「でもその後に『これらの数字は、これまでの研究の結果の1つを お示ししております。個々の患者さんの余命を正確に予測する事は、現在の医学では不可能です』と書かれていたため 悩みに悩んだあげく 治療を受け 今に至ります。」と、綴りました。 そして「おかげさまで 現在の治療は 抗がん剤効果があるようで 維持療法として 続けていきます」「『今の私はとても珍しいパターン』 だとのこと ならば これからの子宮頸がん治療の お役に立てられれば嬉しいかと」と、綴りました。 古村比呂さん 公式ブログより引用 最後に、古村比呂さんは「今年は年女 そしてどさんこの私は『(Boys) be ambitious!』 この志を持って歩んでいきますね」と、その思いを綴っています。 古村比呂さん 公式ブログより引用 古村比呂さんは、19歳の時にクラリオンガール準グランプリに選ばれると、20歳で映画デビュー。さらに22歳の時にはNHK連続テレビ小説のヒロインを演じ、一躍人気女優の仲間入りを果たしました。 ドラマや映画、舞台と幅広く活躍していましたが、現在は芝居を休み、再々再発したがんと闘っています。 古村比呂さん 公式ブログより引用 2012年・1月、古村さんは検査の結果「子宮頸がん」が判明し、子宮を全摘出。 2017年・3月に、「がん」が「再発」。 2017年・11月に、「がん」が、「再々発」。 2023年・1月、「がん」が「再々再発」。現在も治療中だといいます。 古村比呂さん 公式ブログより引用

【がん闘病】梅宮アンナさん 「年内最後の抗がん剤でした」「無事にクリアしました」
乳がんの一つ『浸潤性小葉がん』に罹り、11月に右胸全摘手術を受け、治療に取り組んでいることを公表しているタレントの梅宮アンナさんが、自身のインスタグラムのストーリー機能を更新。 現況について綴りました。 梅宮アンナさん インスタグラムより引用 梅宮アンナさんは「昨日30日は年内最後の抗がん剤でした。」と、投稿。 続けて「無事にクリアしました。」と、綴りました。 そして「本来25日が年内最後の抗がん剤だったのですが、白血球の数値が正常値に達さずまさかのスキップで凹みましたね」と、その思いを綴っています。 梅宮アンナさん インスタグラムより引用 アンナさんは今年8月に、乳がんの一つ『浸潤性小葉がん』に罹ったことを公表。手術前の抗がん剤治療を経て、今年11月初旬に右胸全摘手術を受けました。右乳房のみならず右脇のリンパ節も切除し、手術前の抗がん剤投与時に埋め込んだCVポートを今回も使用しているとのこと。アンナさんは、ウィッグや美容・マッサージなどについて、自身の体験に基づいて発信を繰り返し、がん治療に取り組む方々が、より社会に受け入れられるよう呼びかけています。 梅宮アンナさん インスタグラムより引用 梅宮アンナさん インスタグラムより引用

故・有賀さつきさん、一周忌で父がはじめて明かした本当の「病因」
「実は、納骨をすませていないんです。今でもフラリと戻ってくるような気がして……。でも、いつまでもこのままというわけにはいきませんので、一周忌が終わったら、お墓に入れようと思っています」 1月下旬、寒空の下。自宅前で『週刊女性』にそう声を振り絞って語ったのは、有賀洋さん。1年前の1月30日、52歳という若さで急逝した有賀さつきさんの実父だ。 同期の八木亜希子にも伏せていた 生前の有賀さんは、自らの病状を周りに知らせず、闘病生活を隠していた。 「激やせしていたんですが、“ダイエット中”だと言い張りました。抗がん剤の影響で毛髪が抜けてウイッグを着用していたときも、“このカツラ、便利なんですよ!”と明るく話していたそうです」(スポーツ紙記者) ’18年1月中旬に体調が悪化して入院。食欲がなくて点滴を受けていたが、それでも元気な様子だったという。 「フジテレビの同期だった八木亜希子さんとは、LINEでやりとりしながらも、病気のことは伝えなかったそうです。突然のことで、お父さんも娘さんも死を看取ることはできませんでした。亡くなったことが報じられたのは6日後の2月5日。病名も明らかにされなかったので、いろいろな憶測を呼びましたね」(同・スポーツ紙記者) 有賀さんが病名を伏せたのは、本人の強い意思だった。乳がんだったという報道もされたが、それは事実ではないと、洋さんが初めて明かす。 「実は、卵巣がんだったんです。さつき本人が知られたくないということで、私も隠していました。大阪に卵巣がん治療の名医がいるということで、亡くなる3年前に手術を受けました。私も立ち会ったんです。 それで治ったと思っていたんですが、急に体調が悪くなって入院したんです。2週間たって、もう少しで退院と思っていたら、朝7時ごろに病院から連絡がきて、たった今、亡くなったと……。本当に急でした。 退院したら、この家で一緒に住む予定だったんです……」 3年前に妻に先立たれた洋さんは、一軒家でひとり暮らし。時折、涙を流しながら、有賀さんのことを振り返る。 「結果的に、私がさつきを殺したんです……」 今でも後悔の念に苦しむという洋さんは、そう言って肩を落とす。 「私は東大を出て、電電公社(現在のNTT)に入社しました。3年間ニューヨークに赴任して、現地で家族と暮らしました。それで、さつきは“帰国子女”なんてもてはやされたんです」 ’88年に八木亜希子、河野景子とともにフジテレビに入社。 “花の3人娘”と呼ばれ、バラエティー番組に出ずっぱり。いわゆる“女子アナブーム”で人気となったが、有賀さんにとっては大きな負担となっていたと話す。 「アナウンサーという仕事は、本当に過酷です。夜中の11時に番組をやって、それも生中継だから当然、失敗は許されない。ものすごいプレッシャーで、さつきの神経はすり減らされたんです」 アナウンサーという仕事の過酷さ スポーツニュースを担当しながら、『オレたちひょうきん族』や『とんねるずのみなさんのおかげです』といったバラエティー番組でも活躍。後に“元祖・アイドルアナ”とも呼ばれた。’92年にフジテレビを退社して、タレントに転身。華やかな世界で輝いたが、洋さんはそれが命を削ることにつながったと考える。 「私生活でも、電車にすら乗れない。そのへんを歩けば人に騒がれる。さつきが亡くなった後、確定申告を私がやりましたが、領収書はものすごい数でしたよ。でも、さつきは自分の人生を貫き通しました。それはひとりの人間として立派だったなと思います」 有賀さんは、’02年にフジテレビ時代の上司だった13歳上の和田圭氏と結婚。女児を授かったが、’06年に離婚。有賀さんは会見で和田氏との結婚は間違いだったとも語った。 「’15年に、日本テレビ系のバラエティー番組『解決!ナイナイアンサー』に出演した際、“話し合って別れようと決めた2日後に妊娠が判明し、刑務所に入る覚悟で結婚した”と発言。寝室を別にして夫婦生活を拒否していたことも明かしました。あからさまな物言いにはバッシングもありましたね」(芸能レポーター) 有賀さんが和田氏と離婚したとき、娘は3歳。洋さんは、なんとか離婚を思いとどまらせようとした。